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善は定義できるか?


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「善とは何か?」

について、誰にも反論出来ない定義づけを試みる人が居た。

個人的には「試み」はある程度共感できるし、はじめに言っておきたいのは、「色んな考え方」があって良い。という事。

発起人は、色んな意見や感情を考慮した「善」ではなく、完全に理論的に定義づけした「善」を模索していた。

確かにセオリーとしてはそうだ。

しかし、その試みは色んな人から、「疑問」を投げかけられていた。

私も、この定義づけにある種の「息苦しさ」を感じた。

問題を提起した本人も「難しさ」を語った。

少し難しい話になるが、確かに「完全な定義づけ」は「理論上」可能なのかも知れない。

しかしそれは、この世界が「物理的領域の因果的閉包性」が閉じていた場合。に限られる。

物理の法則は言うに及ばず、私たちの脳の働きや、「心」も厳密には物理の法則に完全に支配されている場合だ。

「因果関係」が完全に成り立つ場合。と言い換えても良い。

近年発達した量子力学では、素粒子以下の世界では、原子以上の世界の物理の法則は通用せず、その世界独自の法則が存在し、さらには、その根源は「確率による」とされる。

観測者が観測するまで、その状態は重なり合って決まっておらず、その世界では「因果関係が破綻している」とされる。

そして、「心」というものは、この量子力学の素粒子以下の世界の事が関係しているのではないか?と強く疑われている。

私が感じた「息苦しさ」の正体は、理屈(物理法則)では計り知れない何か(量子力学)が関係するのかも知れない。

ガッチリ「善」を定義づけしたところで、それは「正論」というところだ。

しかし、正論は時には人を追い詰める。

「良い加減」で良いのではないか?と個人的には思う。

ガッチリ定義したものは、「法律」に任せておけば良い。

頭が抜群に良い人達が長年に渡って決めてきた法律でさえ、疑問視されていたりするのだ。
難しいのは当たり前だ。


阿修羅は「正義の神」であった。

しかし娘の舎脂(シャチー)を力づくで帝釈天が奪った。

これを怒った阿修羅は、帝釈天に戦いを挑んだ。

舎脂は帝釈天の正式な夫人になっていたにもかかわらず、戦いのうちに阿修羅は許す心を失ってしまい、結局、天界を追われる羽目になったとも。

たとえ正義であっても、それに固執し続けると善の心を見失い悪となる。


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